hirausan

死ぬまでにやったこと

多数決のインターネット

都知事選の家入一真氏をぼんやり見ていた。東京という街もあり、なんだかんだかなりの票を集めると思っていたのだけれど予想より遥かに少ないと感じてしまう結果であった。

 

氏の特筆すべき点はマイノリティに居場所を作って救うといったこと。そして「ぼくらの政策」という期間中に政策内容を募集して、みんなが提案したものを吸い上げるといったこれまでにはない民主的で参加型の仕組みだった。しかしTwitterFaceBookでの盛り上がりを見る限り、彼らの言っている「ぼくら」とは「みんな」ではなく、インターネットとはなんとなくSNSのことを指している気がして、割と限定的なインターネットであることも伺えた。「限定的」と言ったが「流行の」と言った方が適切かもしれない。今のインターネットはお洒落になった。

 

昔のインターネットと言えばアングラな雰囲気がとても強かった。今日ほど画一化されていなくて、訪問すると変な音楽が流れるページもあった。無名の個人がウェブサイトをホストするのが通常だったので趣味や関心などの共通項を持った人が繋がりやすい感覚があったのだと思う。僕にとってのマイノリティに優しいインターネットのイメージというのはきっとこの頃の記憶なんだろう。 

 

最近のインターネットのサービスやメディアといえばブックマーク数やコメント数、バズ回数やグッドやバッドの優劣評価。猫も杓子もユーザの投票で溢れている。すべては量で質を測るものばかりだ。インタラクティブである限り、大量のユーザを想定するインターネットではコストを掛けずにつまらないものを隠して、人気があるものだけを取り上げないとサービス自体がつまらないものになってしまいかねない。特にユーザ作成コンテンツ型のサービスは顕著でありこれは多数決そのものだ。

 

マジョリティによって取捨選択された情報が垂れ流れている。何を見たってトップは人気のあるとされているものだけが居並んでいる。「これネットでも有名だよ」だとかを人が話しているのを見かけることも自然だ。僕はどうも息苦しさを感じる。これではまるで、現実の延長じゃないか。 

 

僕の友人の中で50代のとんでもない変態がいる。彼は幼女が四肢切断されながら猫に強姦されるであるとか、目も当てられない小説を書いていた。個人のウェブページくらいしかコンテンツがなかった当時、理解のある人(同類ともいう)もそれなりにいたが、時代は変わりSNSが流行りネットは般化していった。他人がそのままコンテンツとなるSNSの充実度は、現実に属しているコミュニティや友人に大体比例する。みるみる同類が標準化されてゆく一方で、無職で一人暮らしで友人がいない本物の変態だけが残った。Yahoo!知恵袋で10件くらいの長文回答を書くのが退屈な今の日課らしい。彼にとっての居場所とは、誰かがどれだけ頑張ってくれたとしてもこの先のインターネットではもう見つからないだろう。

 

僕がはじめてネットに触れた時は、当たり前に見えていた世界地図に実は裏面があったことを気づいたような衝撃があってとても興奮したのを覚えている。今その裏面は、見慣れた世界が描かれている。これからの世代の人たちはどのような感覚になるだろう。きっと今の僕と同じで、便利な現実の延長、あるいは現実そのものとしか感じないのだろう。

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