食べ物を粗末にする人を粗末にする人
食べ物を粗末にするなと言って目くじらを立てて熱くなっている人の論理がわからない。イルカ漁を激昂する人達と等しいくらいわからない。殆どの人は偏った倫理観や情動で言っているような気がするのだけれど、その感覚も正しいのかどうかもわからない。世の中はまだまだ分からないことだらけだ。
僕自身については、実は意外と残さない。外食や友人の料理にしかり、作ってくれた人に申し訳ないので残すことはしたくないと思っている。たとえ苦手な物であろうとも大体は我慢して食べる。ただしこれはコミュニケーションの中の配慮でしかなく、見ず知らずの農家の人であるとか、アフリカの子供達であるとか、ましてや「お米一粒一粒には神様が……」とか、おそらくは言っている本人もよく分かってないことに想像なんてできない。ネットの議論を見ていてもこのような中身の無い倫理を振りかざす人がとても多いことに悲しくなる。中身の無さを指摘をすれば大体「常識がない」や「人として」だ。食べ物を粗末にする人は悪い。だって悪いから。
日本は古くより農業の国だ。作物の生命力は今より遥かに弱かった。限られた僅かな土地に労働力を際限無く投入してなんとか育ててきた。台風がやって来ればこれまでの苦労は徒労に変わり、集落全体の危機に直面する。そしてこの国は探査機はやぶさにさえ魂を与え擬人化し、皆で感動を覚えるアニミズムの国だ。きわめて低い確率で生き残った米一粒一粒にならば、何かとても大きな力や或いは神の存在を感じられずにはいられないだろう。 しかしこの頃の教えが、今や子供の好き嫌いを治すための便利な道具になっているんじゃないかと疑ってやまないのだ。悪事を働いた子供に対し「鬼に連れて行かれるよ」と言って窘めるように、面倒な事は遠くの知らない人に押し付ければ、手を汚すことなく解決する。鬼ヶ島で静かに暮らしたい鬼達にとっては非常に迷惑な話だし、貧民国の子供達だってそれは同じことだ。自分に食べるものがなく、衰弱していることを引き合いに出され、遠い豊かな国の子供の腹がはち切れんばかりに膨らむのを見せればわかることだ。「私の分まで食べてくれてどうもありがとう」なんて言うはずがない。
命に感謝して、生産者に感謝して、料理人に感謝して、しかし命を奪った人のことに限っては生産者の陰に隠れ、微妙に承認されていないムードを感じる。かつての友人が、動物を殺して食べたことない人が食べ物の命の有り難みを説くのは滑稽だ。と、言っていたが全くその通りだと思った。僕はニワトリを12羽殺して食べたことがあるが、美味しいとなんか思えなかったし、彼らの断末魔を聞いてとてもじゃないけど有難うなんて言えたもんじゃないと感じた。殺すことだって誰かに代理させ、それこそみんなで差別してきた。少なくとも僕は、命の有り難みなんて言える立場にはいないように思う。
農家の人が可哀想だという意見については逆に質問したい。なぜ農業にだけ過敏に気を遣う必要があるのか。士農工商を未だに引きずっているのか、或いは農家を見下しているのではないのか。仮に僕がプライドを持って農業を行っていたとすれば可哀想だなんて言われるのはきっと我慢ならないだろう。自分の生み出したものが捨てられる苦しみならばどんな業種、サービス業だって同じことくらい誰もがわかっていることだ。食べ物の神格化を肯定する立場で見たとしても、製品を作る人達だって毎日ご飯を食べ、そのエネルギーを消費して生産しているのだから製品は食べ物が変換された姿だと言えるのではないか。時代遅れのビデオデッキだってHDDレコーダの方が便利だなんて言わずに壊れるまで使えば良いはずだ。ビス一本一本に神様は入ってないかもしれないけど、VHSに賭けた技術者の魂はたっぷり籠もっているはずだ。少し駄目になっただけで気軽に捨てられていく100均のプラスチック製品だってそうだ。ありえないコスト制限との戦いで生まれた人の意地だ。
この世の物は結局のところ人なんだから、もう少しくらい緩く等しく大事にすればよいはずなんだけどなあ。