hirausan

死ぬまでにやったこと

ヤマト運輸の値上げがとんでもなかった

出荷する殆どの荷物をヤマト運輸に任せている。月間2000〜3000件くらい出荷数があって、毎日専用のトラックが数回かき集めに来る。管轄センターの中ではこのスケールを安定供給する顧客が他に居ないらしく極めて安い。

以前より値上げの噂は届いていたし、決定後の日経の記事も目には触れていたのだが、大口ということもあってまあウチは十円程度だろとか思っていた。しかしそんな甘っちょろいものではない事を見積書が教えてくれた。


これまでの価格帯
本州は概ね割引される。ネットの情報を拾う限り相場並だけどやっぱり安い。これからはサイズ別価格を厳格化すると言っているようにサイズ関係なく一律価格であった。この様な割引は法人個人は関係なく出荷量を基準に適用されるみたいで、一日数件もあればディスカウントを持ちかけてくれた。同情するような安さではあるのだけど、よく考えたら高いと思ってる苺ですら1パック400円位だし、育てて収穫して農協に運んで洗浄して選別して店に運ぶ手間を考えれば苺もめちゃくちゃ安い。まったく関係ないけどそんなことを考えて悲しくなった。

今回提示された単価
60サイズ比較で凡そ5割増し。サイズが1段上がるにつれ数百円が上乗せされる。つまり爆上げ+サイズ別運賃になった。試算では凡そ月間100万円以上の値上げだ。文句があるなら来月から持っていかないから!といった強気の姿勢で、対応不能なギリギリの予告と豹変ぶりに驚いた。喧嘩を売られたような気分にもなったけど、運送業者とネット民はまるで奴隷と貴族みたいだなあとか言ってたクチなのであまり強いこと言いたい気分ではなかった。ダンピングの様な価格だったことはやはり認めざるをえないし、今回は本社による方針転換だ。そう言えば佐川がこのタイミングでとんでもない爆安の見積もり持って激プッシュしてきたのが面白かった。全く懲りていない。大きい荷物なら失くさないだろうと思って一部使うことにした。本件で離れた顧客も多いだろうと予想するので、これからの様子を伺うしかないといったところ。


追記
はてブのコメントを見ているとヤマトを擁護する人が割と多くて少し意外だった。適正価格について異存があるわけではない事を断っておく。たしかにネットでは佐川は極端に嫌われているし、西濃に至ってはコピペになるくらいに神格化している。郵便はなんか手紙っぽい。しかしヤマトが提案する高付加価値のサービスを本当に人々が強く望んでいるのかは些か疑問だ。不在票だけ置いてどこかに行ってしまうのは論外だとしても、要請していない再配達をあくる日もあくる日も試行するのは過剰サービスではないかと思う。値上げ分だって時間差はあれど結局は消費者に転嫁されるはずだ。送料無料は無料ではない。脱デフレという観点においてはこれも正しいのだけれど、ネットによって益々インフラ化したヤマトが急に極端な高サービス・高単価を掲げて、そのブランドを支持しすぎる動きはヤマトは勿論のことネットの公共性までもが低下しそうで少しばかり心配になってしまう。

血をあびるほどの爽快な体験

年をとったせいか、虚無感に気付いたのか。はたまた年をとり過ぎたせいか、無の境地に辿り着いたのか。まるで興味を失っていたにも関わらず、とりあえず買っとくかといった軽い気持ちでPS4買ったみたのだけれど今日までのおよそ一ヶ月の間、あくる日もあくる日も朝まで画面に齧りついてる。


交感神経さえ上手に刺激してくれれば良い
主人公が強くなるけど敵も強くなって相対的には弱くなるといったものにいい加減に飽きたので、もはやゲームに求めるのは適度な緊張による過集中と開放の達成感だと僕は思っているわけだけれど、近頃のゲームは映像美だけでなく、それの支援もうまくできているような気がする。馬鹿の一つ覚えのように逐一の行動にオートセーブが働き、死んでもペナルティなく直前からリトライできるので徒労に心をへし折られる心配もない。1シーケンスがとても短いので、途切れる事なく次の集中へと移行できる。短すぎて一つ前にどんなことをしていたのか忘れてしまうくらいだが、別に忘れても困らないブツ切りのシナリオばかりだったりする。マップやHUDに目的地が表示されているので断続的に遊んでも迷うことはない。僕が小学生だった頃は強敵の倒し方に考えあぐねたり、ノートに必死にメモをとったりしていたけど、これからはもう脳みそなんて使わなくてもよくなったわけだ。反射神経さえ上手に反応させていれば良い。



爽快な殺人体験に慣れてくる
降って湧いた出所不明のコインや風船を集めれば高得点。このようなものはきっとプレイヤーがすぐに飽きてしまうのだろう。定量的な指標の代わりに与えてくれる刺激はきわめて強く、もはや天井に到達しているといっても良いと思う。殆どのゲームは何かを破壊することが目的のものばかりで、もちろん人間オブジェクトも例外ではなく、返り血を浴びながら大量に殺しまくるゲームだって多い。"殺すことも可能" だったとすれば、それは現実世界も同じことなのでプレイヤー側の道徳次第とも言えるわけだが、殺さないと次に進めなかったりと逆にペナルティを課されたりする。くりかえし慣れてくると画面に人間が居れば「そいつは殺せるだろう」といったアフォーダンスの様なものすら獲得してしまう。


映画や小説や、あるいは名探偵コナン。いや、未来少年コナンですら殺戮シーンはあるので、いたずらにゲームだけを矢面に立てるのはどうかとは思うが、他を引き合いに出せば出すほどゲームの立ち位置は悪くなってしまうので仕方ない。自機が代理するとはいえプレイヤーの行動には変わりないし、その殆どの殺人には大した動機がない。倫理の欠片もないのが今のゲームだったりする。こんなことをいいながら個人的には割とどうでもよくてまともな人間ならそのくらいの判別くらいできるだろうと思うけど、駅とかでたまに見かけるような人とかを思うと少しばかりか不安にはなってしまう。海外サードパーティ製とはいえ殺戮を奨励するゲームをソフトラインナップに堂々と居並べる会社が、別では生命保険を売ってたりするのもなかなか変わっていて面白い。ゲームが与えてくる爽快な体験を僕はさくさくとこなしている。


PSNアカウントはhirausanです。フレンドになてください。

14年2月の質問と回答まとめ

ASK.FMで2月に答えたものからいくつか選びました。


キキは何故一時空を飛べなくなったのでしょうか?


井の中の田舎育ちが都会に出て、劣等感や嫉妬心に打ちのめされたことじゃないでしょうか。自分は空っぽだと思わせる描写が嫌という程ありましたね。特にキキの能力は、本人も「血で飛ぶの」と言っていた様に努力して手に入れたものではなく、単に用意されていたものです。物語終盤、恐らくキキにとっては初めて出来ないことに挑戦します。見事成果を収めますが、ジジの声は戻りません。見るからに幼児性を暗示する魔法(或いは思い込み)が不要になったことは、退行して力を取り戻したのではなく、きちんとその次へと成長したことを担保する表現でしょう。これで安心して眠れます。両親への手紙は蛇足です。


今更ですが、Googleストリートビューのプライバシー問題についてひらうさんはどう思いますか?


日本の住宅事情が問題だと思います。確かGoogleは道路をパブリックな空間だと言ってました。アメリカの住宅は建物と道路の間に広い庭があり、公私が三階層に切り分けられています。一方で日本の都市部の住宅は狭いだけではなく庭もありません。道交法違反にも関わらず鉢植えを居並べたりすることからわかるように公的空間とは捉えにくい環境や文化なのではないでしょうか。話は逸れますが、ストリートビューについては賛成です。現在は最新のデータのみを閲覧できますが、将来は蓄積した過去データもきっと公開されると思います。遡行性のタイムマシンになるわけですね。HMDバイスと組合せるととても面白そう。




何故JRPGは衰退したのでしょうか?


技術の進歩によって、JRPGたらしめる慣習が陳腐化したことが原因の一つだと思います。かつてのファミコン時代は自機・敵機など各オブジェクトの性質を「刺のあるものは触れてはいけない」といった子供でも理解できる低次元な記号で表現していました。HPやLVであったりと比較的高次元のそれが登場するJRPGは、なんだか大人向けで優れた印象があったはずです。しかし技術が進歩すればするほど、等身キャラがターンを待ってる姿や不合理なお使いイベントに、間抜けさや不自由さを含めた違和感を覚えるようになりました。一方、ACTは進歩を正統に享受できたので、より自然に、自由に進化したのはないかと思います。制限の中で生まれた擬似的なリアリティから、制限を取除いた結果だと思います。一旦TRPGに戻りましょう。







最近、何もかも無意味に感じて無気力です。ひらうさんはそう思いませんか?



確かに無意味ですね。ただしそれは長期的に見た場合に限定した話じゃないでしょうか。それであれば、錯覚なので安心してください。例えば、テレビの電源コードが短くて困ったとしても50年後は明らかに無意味です。しかし今、延長コードが不要かといえばそうとも感じませんよね。やっぱりテレビを見るためには必要です。こうした目の前で起こるものこそ意味や価値と捉えるべきじゃないでしょうか。期間を将来に広く設定した評価はそれらをみるみる矮小化します。「映画なんて観たって終わるんだから觀なくていいじゃん」と言ってるのと同じことです。見ている最中の価値が全く評価されないのは評価として妥当ではありません。




「天才とは99%の努力と1%の才能」なんて言葉がありますが、ひらうさんは努力と才能についてどう考えていますか?



凡人も天才も努力はあんまり関係ない気がします。Aについて異常に執着する人はA’との差分に気付いてしまいますが、殆どの人はどちらを見てもAと言います。この様な人のことを、凡人は天才と呼ぶのではないでしょうか。努力を必要とするのは成果を上げる際に限定した場合です。試行回数が増えれば増えるほど全体の成功率は高まります。努力よって新たな視点も見つけうるとは思いますが、それは天才ではなく努力家ですね。凡人を救っているであろう口当たりの良いこの言葉は、成果を出さなければ天才ではないといった誤った常識が前提にあるのではないのでしょうか。




磯野家はカツオ以外全員陰湿とツイートされていましたが、特にそのような印象を与えるエピソードがあれば教えて下さい。



陰湿と言ったのは縮約しすぎだったかもしれませんね。サザエさんは見るからに一昔前の村社会です。それも磯野家を中心に置いたスター型のネットワークです。磯野家に関する噂だけは半端ない速度で拡散されていきますね。波平の親切な行動を隣人が目撃した翌る日には「磯野くん聞いたわよ!お父さんのこと!」と無関係のクラスメイトが群がってきます。各々のそういった振舞いもムラ構造を保守する役割の様にも映ります。一方でそんな周囲にいつも困惑しているカツオが得意とする、相手の気持ちを深く思慮した正しい、あるいは合理的な行動については大抵トラブルとなって咎められます。彼はあの世界で唯一の現代人なのではないのでしょうか。



ひらうさんにとって幸福とはどのような状況、環境のことですか?

幸福にも色々ありますが最たる理想を述べれば、能力を発揮して何かの役に立つ状況が継続していることですかね。発揮すればするほど次回の難易度が上がっていくのがなんだか忍者の麻を飛び越える修行に似てますね。能力の限界を知って途方に暮れれば、諦めて次の幸福(例えばのんびり暮らすとか)をあたっていくんじゃないかなあ。そんなの実際は我慢できない気がするけどそれは受け入れるしか無いのかなと思ってます。結果が出せないなら死んだほうがマシみたいな強迫観念は、加齢とともに少しだけ寛解してきた気がしますね。したがって惣流・アスカ・ラングレーもババアになったら落ち着くんだと思います。

ASK.FMで回答しまくってる

ask.fmとは特定のユーザに匿名で質問したり、あるいは回答したりするシンプルなSNSサービスだ。自分の場合は文章を書く速度を上げたいと思い、つい先日うっかり始めてしまったクチなのだが、頭の中が整理される感覚が面白くて暇さえあれば猿のようにずっとやっている。

 

f:id:hirausan:20140226190035p:plain

 ひらうけうちろ | ask.fm/hirausan

 

この様なサービスが抱える問題がある。如何にも個人的なサービスに見える割に、個人的な質問が多いと途端につまらなくなることだ。かつて日本でも同様のサービスが幾つかあったのだがいずれも活性化せずにサービス終了している。他のユーザを見ていても閉鎖的で第三者が読んでも楽しめない回答が目立つ。赤の他人が今日何を食べたとかをどうでも良いと感じるのは当然のことで、回答がコンテンツとして再利用できるように回答者は勿論、質問者も思慮しなければならない。サービス精神の高い人たちの中では妙な緊張感が生じる。

 

5日程やってみてわかったマンネリ化しないコツと言えば、自分自身が無関係の事柄且つ抽象的な質問に答えることだと思った。第三者の意見とは多種多様で身勝手なものなので見る側も飽きにくい。質問も気軽に投稿しやすくなるはずだ。解釈の幅は広ければ広いほうが良い。回答者の必然性は失うかもしれないが出自や背景なんてどうでもよく、回答さえ面白ければ答えた人が誰であるかは靄が掛かかっているくらいでも良いはずだ。

自分の回答を見ると、自分とは全く関係のない質問で溢れてはじめているが、初期の個人的な質問への回答と比べ、ある程度は読み物として成立している気がしてホッとしている。それに普段ぼんやりと考えていたことが体系化されていくので書くのもとても楽しい。

 

極端を言えば、人間のコミュニケーションは質問と回答の繰り返しでしかない。みなさま、良い回答の為に、良い質問をお待ちしております。

follow us in feedly