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hirausan

死ぬまでにやったこと

注意欠陥と多動と過集中のなかで その1

集中力と注意散漫の話を書こうと思ったんだけれど、ただの個人的な思い出話になってそして典型的なADHDな話になってしまった。

 

大人になった今は随分落ち着いたなといった印象であるが、小学校低学年の頃はとてもひどかった。年1回以上は縫合を必要とする怪我をして、3年生までにしめて31針縫ってもらった。さっきまで後部座席に乗ってたはずの父の車に轢かれそうになることもあった。父は「なんでそこにおるんや!」って怒っていたけどそれはこっちの台詞だ、と思っていた。

学校は好きだったけど授業ばかりはとても退屈で、じっとして座っていることに我慢できないことが多くあった。立ち歩いたり、邪魔にならないようにロッカーの上で寝転んだりする事もあったけど、最も挺出していたのは鉛筆をバッキバキになるまで齧ることだった。まだ陽が高いというのに鉛筆といえる物が1本もない状態に陥り、困って焦ることもあった。すぐさま保健室に出向き、体温計を摩擦で温めて早退する他はなかった。まさか「鉛筆全部齧り潰したんで帰ります」なんてとてもじゃないが言えない。誰かに借りる方法もあったけれど自分に預けたが最後、まさに木っ端微塵になって返ってくる事を承知の上で貸してくれる奇特な人はいないと思っていた。消しゴムなんかはもはや捕食の域だった。

授業の中でもとりわけ国語の音読の時間が辛かった。他の人が読み上げるスピードと自分の黙読のそれが一致しないことで地獄だった。それを振り払うように教科書をどんどん勝手に読み進めると気づけば好きな理科の教科書を読んでいて「じゃあ次ひらう君、続きを読んでください」といった先生の突然の指示に応えられず、まごまごとしたのち自席で立たされることもあった。 家庭訪問はきまって最後の番で誰よりも長かったと思う。自分の家に先生が居る非日常感が嬉しくて部屋内を全速力で走ったりぴょんぴょんと跳ねて邪魔ばっかりしていた。もちろん、母と当該の話をしているさなかのことだ。

 

そんな僕でも自分の行動が奇行であることは最初から十分に理解していたし治したい気持ちは強かった。本当はそんなことしたくないって判っているのに何故だかしないと不快で脳が押し潰されそうになるのだ。よりわかりやすく一般的な体験で例示すると本当は怒りたくないのに怒ってしまう感覚と言えばよいか。自己嫌悪はとても苦しかった。友達の前では絶対泣かなかったり調子乗って大人びた言動が多かったり、好きな女の子がいたのもあってとにかくプライドが高かった自分は尚更だったと思う。この頃から他人を過度に気にするになった。いつしか生きることが辛くなっていった。

 同じクラスに一言も発したところを見たことのない知的障碍者の女の子がいて、他人の目を気にする自分と違い、自身を相対化できない彼女を羨ましく思ったことがあった。しかしある日、ひょんなことから家に遊びに行ったら矢継ぎ早に喋る彼女がいて思わず目を丸くしてしまった。ブタミントンをはじめとした様々なゲームを出してくれるので夢中になって一緒に遊んだ。遅くなったので自宅に連絡してもらい晩御飯をご馳走になった。彼女の母はとても嬉しそうだった。その理由を僕はわかっていたけれど特に触れなかった。帰り際にこんなに話す人だとは思わなかったと告げると彼女の母は娘の普段考えてることを色々話してくれた。「みんなと喋りたいけど会話についていけないから悩んでいる」とか「もっと勉強してみんなと同じ授業を受けたいと思ってる」といった趣旨の事を聞いて、急に自分がとんでもなく後ろめたい存在に感じたのをよく覚えている。相対化できていなかったのは僕の方だった。「これからも遊んであげて欲しい」と頼まれたので快諾したがその気持ちが拭えず、結局遊んだのはその日が最後となった。

 

 高学年になるにつれて奇行はみるみる緩和していき少し変わった子ぐらいまでに回復していた。先生もよく理解してくれていたみたいで、得意な理科や図工の時間では先生に成り代わり壇上で授業をする機会を作ってくれたりもした。35mmフィルムの空ケースとエタノールとライターの電子点火装置を利用したアルコール銃を作って実演してみんなを怯えさせることもあった。当時はただ自分の能力が認められているだけだと思っていたので今振り返るとても恥ずかしく思う。担任の工夫にはとても感謝している。

理解不能な行動ばかりしていた割にいじめられることも全くなく友達も多くてずっとクラスの中心的な存在でいられた。運動ができてよく喋るからだろうか、あるいは授業中に立ち歩いてたり鉛筆を齧って粉々にするのがワイルドに映っていたのか、もう今はわからない。

 

その2につづく

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