hirausan

死ぬまでにやったこと

古くなるということ

現在自分は24歳位だと認識しているが29歳で、後およそ10ヶ月ぐらいで30歳になる。そろそろ青年も終わり壮年への切替え準備の時節だ。しかしどうも納得がいっていない。

肉体年齢に限定するのであればどうでもいいことだと思えるのだけれど問題は社会的な年齢だ。たとえば仕事で初対面の人に自己紹介してもご結婚はされていますか?という質問が自然に聞こえてくる事に不愉快までは無くとも自分自身の映り方に違和感を覚える。婚姻差別とかの話もあるし昨年初頭に婚約破棄した話もあるけれど、それらを除いても結婚とかあまりにも早過ぎるでしょっていうかまだ子どもだよ。とかそんな気分になってしまう。

そんな年を取る過程で生じる違和感の中で最も悲しいことがある。自分は一人暮らしで猫を飼っているが、いつからかそれら情報を他人に教えるのを無意識で躊躇するようになってしまった。どうしてなのかを解り易くする説明に、翌る年の自分のアウトラインを挙げるとするとこうなる。”30歳、男性、独身、一人暮らし、猫を飼っている” ――以上。 寂しさや不幸っぽさを言えばとりわけ猫が良い味を出している。身に覚えのない性犯罪の疑いにでもかけられでもすればまあリーチ状態だろう。そんなことを考えて、悲しい気持ちになること自体がむしろ飼っている猫に対して申し訳ないんじゃないか、とかよくわからなくなる。二年くらい前はそんなこと想像もしていなかったのに。

 

そういえば若干ヒステリー持ちの母も39歳の時に狂った。今の僕と同じで40歳になる事に違和感を覚えてとても怖かったららしい。育児放棄状態で幼児化し毎日のようにワンワンと泣いていた。近所のビジネスホテルに泊まって帰ってくるだけなんだけど家出をすることも度々あった。僕は当時12歳だったが家族には極めて無関心だった。当時発売されて割とすぐのプレステが欲しかったので高架下に放置されている車をバラして鉄くずを町工場に売る日々を過ごすうちになんだか次第と親から自立していた。当の本人はめでたく40歳を迎え、"my40's"という40代女性誌を楽しそうに読んでいた。父は父でめっぽう理不尽な人間なんだけどこの時ばかりは流石に同情した。結局プレステはお年玉で買った。

とは言え彼女も20代前半で父と結婚し、ずっと僕と姉の子育てしかしていなかった。大人になり自由を謳歌できたのも4、5年かと思うととても不憫に思う。一つ前の世代の女性達はそんな人生は普通だと思いこまされて納得できていたのかもしれないが、当時はキャリアウーマンという言葉が喧伝されて幅広く流行していた。男女共同参画社会幕開けの真っ只中だ(今も幕はそんなに開いてないけど)、きっとやりたい事や自分の目標像とかがあったんだろうなと、ジブリは魔女宅が一番好きと言ったり、パートにやりがいを感じて十年以上未だにそのコミュニティに依存している様子を見る度にそう思う。

 

加齢について一番誤算だったのは、古くなっていくことではないという事だ。テトリスに熱中している友人の祖父(もう死んだ)を見た小学生の頃から、新しいことを知り、時代に付いていければ老いていくことは永遠に無いんだろうなと安心していたがどうやらそうではないらしいことが最近わかりつつある。自分の会社は今およそ120人の従業員が居てその殆どをアルバイトが占めている。例外は多々あれどバイトだけあって足並みを揃えたかのように皆若い。記憶に新しい昨年末の忘年会の折、彼らと話す機会があったのだが何か根底から新鮮に感じさせられることがありとても印象的だった。この新鮮さが初めは一体なにか解らなかったのだがどうやら新鮮は誤りで、違うものというのが最も適切な気がする。新古や優劣とかそういうのではない。希望だとか活力があるとかそういった解りやすい指標的なものでもなく言ってしまえば軸が違うのだ。

 

かくして人間は違うものが現れると問答無用で、その差分を古くとされてゆく言わばトコロテン式であること事を理解した。人間というものは自作PCのケースみたいなものだと思っていたが、どうやら人間というものは自作PCのケースみたいなものではないらしい。もうなんでもいいから30代は楽しいといいな。

 

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